福島泰樹



短歌絶叫歌人・福島泰樹


死者なれば君らは若く降り注ぐ時雨のごときシュプレッヒコール

「悲しみの連帯」さなり高橋よ 五臓六腑の怒りの歌を



「歌の力を信じる。肉声を信じる。
福島泰樹の短歌には、また彼の肉声が奔放に疾駆する絶叫コンサートには、私たちの魂を揺さぶる根源的な力がある。聴くという快楽を導き、同時に現在のの私たちの在りようを暴力的に問い返さずにはすまない無類の力が、いつもいつも彼のまわりには働く。言葉は生きている。昇華された言葉は魂と同じことだ。古来より人はそれを言霊と呼んだ。」(立松和平)




吹雪のハドソン川よわが愛しき青春よサックスよ、死ぬな中上健次よ



「シンバルの微かな響きが背後から私の体を貫通してゆくと同時だった、私は声を発する楽器と化していたのである。もはや、朗読でも朗唱でも絶唱でもない、私の肉体が<絶叫>を体現していたのである。私の中でなにかが変わった」



~永畑雅人(p)、石塚俊明(perc)、菊池雅志(尺八)、龍(g)、今日の短歌絶叫コンサートのスタイルの完成であった!1985年2月短歌絶叫コンサート「望郷」北海道ツアー



「短歌絶叫とは何か?
一言で言うならば、言葉が逆巻き、滾り、迸り、音となって直立する瞬間・つまり音が言葉を求め短歌となって立ち上がろうとする、まさにその瞬間の状態を声として発する。まさにその声である。」



「活字だけが短歌の表現の場ではない。活字の中だけに短歌を収束させてしまってはならない。人の情動に直接訴えかけるラディカルな表現形式、それが短歌だ。聴く人々の体の中の韻律と共鳴し合い、呼び呼ばれ、(観客と共に)歌の世界を現出させていくのだ。直接伝達詩型短歌は、連帯を希求する詩でもある。ステージは生者と死者との共闘の場でもあるのだ。」
(福島泰樹「寺山修司の墓」あとがき)



福島 泰樹(ふくしま やすき、1943年- )は、日本の歌人。早稲田大学第一文学部西洋哲学科卒。東京都台東区下谷の法昌寺の住職を務める。歌集に『さらばわが友』『中也断唱』、評論集に『宮沢賢治と東京宇宙』『弔い-死に臨むこころ』など著書多数。『福島泰樹全歌集』全2巻(河出書房新社)がある。 「歌謡の復権と肉声の回復」をスローガンに、1970年より全国で千数百回を越える「短歌絶叫コンサート」を敢行、「短歌絶叫」という前人未踏のジャンルを創出。第一歌集『バリケード・1966年2月』以後三十年、来たるべき次代の黎明を予感させる熟達錬磨の第二十歌集!第四回若山牧水賞受賞。




~自選15首(短歌とは五七五七七のリズムと三一文字の制限を持つ短詩のこと。)~
・さらばわが無頼の友よ花吹雪け この晩春のあかるい地獄
・相次いで逝きたる友の名を呼ぶにミラノは霧よ泣きながらゆく
・紺碧の夢の波濤よおれもまたゴンドラの唄君に捧げん



『絶叫、福島泰樹総集篇』

心に問い、魂に聞き、涌き立つ情念が燃えあがる。五臓六腑の情の歌を、自選歌三千首にたくし、福島泰樹のすべてを明らかにした注目の書。


・パリの憂愁ミラノの孤独そしてまた銀の翼の人ならなくに
・ローマテレミニ駅前広場に不覚にも飛ばせし帽子の行方はいかに
・サンタールチア駅のベンチよ青春の夢にたちあらわれいでし幾人
・思い出や昔わたしは此の陋巷にただ酒を飲み生きておったぞ
・こんなにも飲んだくれてサンマルコ回廊 風が吹き荒れていた



「茫漠」の二字をもって歌の情としてきた福島泰樹が、90年代終畢にあたって歌い継いだ三百四十余首。



・ジェットホイルの波間に浮かびくるものを鯱飛ぶ朝を悲しんでおる
・佐渡へ流さる日蓮思う末法の白い波濤の立つガラス窓
・青雲の志に燃えしかば南海の地に果てなむも望郷ならず
・落葉針葉樹林よ、空よ、春風よ、潰えし夢を数えていれば
・嗚呼! そして楽しくあらば豪放に酒を胃の腑に流しこむのだ
・師を問わばガラスに映る褐色のフラッシュ・エロルデ春の稲妻
・茫洋の海の彼方を思うかなスペイン寒く死んでいる俺



『寺山修司13回忌追悼「望郷」95.6.23群馬・新町文化ホール』
頓挫した歌への意志を受け継ぐ者、それは私だ。絶叫第3弾は、寺山修司13回忌追悼コンサート。同胞として、夭折した寺山修司と同じ短歌の道を、1人歩きつづけてきた福島泰樹が今、ステージで寺山と語り始める。願わくば寺山修司よ、われらが魂の絶叫に涙してくれ!。95.6.23群馬・新町文化ホール。カラー92分。



「人生はただ一度の質問に すぎぬと書けば二月のかもめ」寺山修司




「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけははっきりしている。だが、だからといって墓は建てては欲しくない。私の墓は、私の言葉であれば充分。」
(寺山修司 絶筆エッセー「墓場まで何マイル?」)



 頓挫した歌への意思を受け継ぐ者、それは私だ。願わくば寺山修司よ、われらが絶叫に涙してくれ!



「あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ 泰樹」







『福島泰樹短歌絶叫コンサートVOL.6 中原中也』95.11.24 静岡県富士市・ロゼシアター

たったひとりの女のためにあかあかと燈しつづけてきたるカンテラ 

初めて自作の短歌を朗読した1970年の晩秋、静岡県愛鷹山麓の小村柳沢に移り住んだ福島泰樹は、やがてシンガーソングライター龍と組んで短歌熱唱のステージ活動を開始する。「曇天」「妹よ」「別離」と中原中也をテーマに、各地を駆け巡り続け25年。短歌絶叫を誕生させた青春の地・静岡の舞台で実現した最高の名演。カラー130分。



 詩人中原中也は、生きていればこの春、百歳の誕生日を迎えている。誕生日にあたる4月29日、その故郷山口市に招かれた私は、中原中也生誕100年記念「短歌絶叫コンサート」に出演した。山口市中央公園に張られた(サーカス小屋を擬した)純白の巨大な天幕が、青空と美しいコントラストをなしていたる。出番を待つ間、さまざまのことを思った。
 中原中也没後50年祭が山口県民ホール開催されたのは、1986年10月11日。大岡昇平記念講演に引き続く、中原中也追悼短歌絶叫コンサートの、アンコールを求める聴衆の歓呼を私は生涯忘れることが出来ない。終了後、遺族を代表して(実弟でハーモニカ奏者の)伊藤拾郎さんと、(中原中也著作権者で中原中也記念館創設に尽力した)中原美枝子さんから花束の贈呈を受けた。あれから21年、大岡昇平も伊藤拾郎も中原美枝子もでにこの世にはいない。私は、中原中也生誕100年絶叫コンサートを、詩人を支えた人々に捧げた。
 生誕100年を記念し、私は評論集『中原中也 帝都慕情』(NHK出版)、絶叫版CD『絶叫!中原中也』(クエスト)、『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書)を相次いで刊行した。これより、『悲しみの言葉 中原中也』(ちくま新書)を一気に書き上げ、評伝『中原中也』を書き上げる。
 中原中也の詩に出会ってから40数年、この間、どれほど励まされてきたかしれない。いや、これからも中原中也の詩を友として、歩み続けてゆくことであろう。喪失を生きた求道の詩人中原中也よ!



中原中也の誕生日は、明治40年(1907)年4月29日。今から数えてちょうど百年前。現在の山口市湯田温泉に生まれ、父(軍医)の転任に伴い広島、金沢と移り住んだ後、大正3年3月、山口の自宅に戻り、同年4月下宇野令小学校に入学、以後4年生まで在校し、県立旧制山口中学校を目指す彼は、大正7年5月、山口師範付属小学校に転校した。そして大正9年の4月、県立山口中学校に入学する。旧姓柏村。350篇以上もの詩を残し、それらの一部は、中也自身が編纂した詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』に収録されている。また、『ランボオ詩集』を出すなど、フランスの詩人の紹介にもつとめた。
昭和12年10月12日(1937年)結核性脳膜炎を発症し、30歳の若さで鎌倉に没する。



時あたかも中原中也生誕百年の春、藁束の上で横たわる中原中也の肖像写真と葉書が発見された。友人高森文夫の故郷、宮崎県東郷村を訪ねた際に撮影されたもの。これらは中也が心の懊悩を忌憚なく打ち明けることができた年少の友人、高森文夫所蔵の書籍の一冊から発見された。



月の浜辺 中原中也



月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。



それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。



月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。



それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。



月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。



月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?



『骨』

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、――僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。



「さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉のほかに鳴るものも無き」 福島泰樹


■プロフィール 昭和18年 東京都生まれ
早稲田大学文学部哲学科卒
東京都台東区下谷の法昌寺住職
歌謡の復権を求め「短歌絶叫コンサート」を創出、これまでに800ステージをこなす。
■受賞暦 昭和 36年  第6回ブルガリア国際作家会議コンクール詩人賞受賞
平成 7年  第22回放送文化基金脚本賞受賞
平成 11年  歌集『茫漠山日誌』により第4回若山牧水賞受賞

■作歌活動 早稲田大学在学中に早稲田短歌会に入会、現在「月光の会」主宰
◎歌集/『バリケード・1966年2月』『中也断唱』『さらばわが友』
◎評論集/『宮沢賢治と東京宇宙』『弔い-死に臨むこころ』
その他作品多数



『宮沢賢治生誕100年 絶叫コンサート「修羅の渚」』
宮沢賢治生誕100年となる1996年に向けて、福島泰樹は賢治が学生時代を過ごした岩手県・雫石町で記念コンサートを行った。賢治独特の文体と、歌謡の復権を目指す福島泰樹との出会いは、新たなるダイナミズムを生み出し、私達の魂を揺さぶる言霊となってホールを覆い尽くす。宮沢賢治の世界を、福島泰樹が朗々と歌い上げる白熱のコンサート。
95.9.9 岩手・雫石町立中央公民館。 カラー120分。



映画「風の又三郎(1940年)」

監督:島耕二/出演:片山明彦・中田弘二・北竜二・風見章子・大泉滉・林寛・早明凡太郎ほか

どっどど どどうど どどうど どどう 
青いくるみもふきとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
  どっどど どどうど
  どどうど どどう

 『風の又三郎』(かぜのまたさぶろう)は、宮沢賢治の短編小説。谷川の岸の小さな小学校にある風の強い日、不思議な少年が転校してくる。少年は地元の子供たちに風の神の子ではないかという疑念とともに受け入れられ、さまざまな刺激的行動の末に去っていく。その間の村の子供たちの心象風景を現実と幻想の交錯として描いた物語。「風の又三郎」と題する映画はいくつかありますが、原作の雰囲気をよく伝えているのはなんと言っても最初の映画化作品「風の又三郎」(日活、監督 島耕二、主演 片山明彦、昭和15年10月10日封切、白黒・96分)です。最初の出版の1934年からわずか6年後の公開でありました。東北の寒村にある小さな分教場に、転校生がやってきた。子供たちは、彼が二百十日の風で運ばれて来た“風の又三郎”だと信じ込んでしまう…。俳優から監督になって間もない島耕二が演出を担当。日本児童映画史上最高の作品の一つに数え上げられる、詩情あふれる作品。
 この映画はモノクロですが美しい自然や動植物などをふんだんに描写しており、また若き風見章子さんの美しさが大変印象的です。なお、一郎役は若き日の大泉滉氏、嘉助の姉役が風見章子さんです。



『銀河鉄道の夜』



福島 泰樹さん
(ふくしま やすき)
歌人・僧侶

1943年 東京下谷に生まれる。
1966年 早稲田大学文学部哲学科卒業。
1969年 第一歌集『バリケード・1966年2月』を刊行しデビュー。
1970年 短歌朗読ステージを開始。

 「歌謡の復権と肉声の回復」をスローガンに、「短歌絶叫コンサート」という新たなジャンルを創出。自作の短歌のほかに、宮沢賢治、中原中也、寺山修司などの作品を30年以上にわたり絶叫。全国でのライブは千数百回を数える。



DVD『福島泰樹短歌絶叫コンサート総集編「遙かなる友へ」』

歌謡の復権と肉声の回復をスローガンに、短歌を絶叫すること30年。熱いステージを積み重ね、絶叫コンサートという独自のジャンルを精力的に開拓し続けてきた福島泰樹。聞く者を突き動かさずにはおかない、強力な力で迫り来る彼の絶叫は、内外で高い評価を受けてきた。旭川、東京、群馬、1995年に行われた3つのコンサートから、自らが選んだベストシーンを収録。カラー180分。



 歌集に『中也断唱』(思潮社)、『無頼の墓』(筑摩書房)、『朔太郎、感傷』(河出書房新社)、『デカダン村山槐多』(鳥影社)、現代歌人文庫『福島泰樹歌集』(国文社)、『青天』(思潮社)、『福島泰樹歌集』(国文社)、『福島泰樹全歌集』全3巻(河出書房新社)、評論集に『葬送の歌』(河出書房新社)、『山河慟哭の歌』(佼成出版)、『中原中也 帝都慕情』(NHK出版)、CDに『革命』(クスエト)、DVD『遙かなる友へ』(クエスト)など。
 CD『絶叫中原中也』(クエスト)、『発見 中原中也』(PHP新書)、『悲しみの言葉 中原中也』(筑摩新書)など生誕100年を記念して中原中也の著作が相次いで刊行される。毎月10日、東京・吉祥寺「曼荼羅」(0422・47・6782)にて、月例短歌絶叫コンサート開催中!

 現在、東京・下谷にある法昌寺の住職を務めている。
 「月光の会」主宰、雑誌「季刊月光」(鳥影社)編集発行。

【受賞歴】
1961年 第6回ブルガリア国際作家会議コンクール詩人賞受賞
1995年 ラジオ放送「紫陽花の家」により第22回放送文化基金脚本賞受賞
1991年 歌集『遙かなる友へ』により1990年詩人賞
1999年 歌集『茫漠山日誌』により第4回若山牧水賞受賞



「二日酔いのオーツ 無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ」
爆酔した果てに西武線の線路に大の字になって電車を止め目白署にぶちこまれた福島泰樹、十代晩年の一首。



【福島泰樹氏プロフィール】
 1943年東京下谷に生まれ、早稲田大学文学部を卒業。1969年10月、早大闘争を主題とした歌集『バリケード・一九六六年二月』で鮮烈なデビュー。1970年3月、出版記念会の席上で自作の朗読を試みる。1975年冬、シンガーソングライターの龍と出会い、「歌謡の復権と肉声の回復」をスローガンにステージ活動を開始。1982年7月、LP『曇天』をリリース。
 1984年6月、寺山修司一周忌追悼絶叫コンサート「望郷」(池袋西武スタジオ200)で石塚俊明、菊池雅志と出会い、翌春永畑雅人がメンバーに加わり、現在のスタイルが生まれる。同年10月、渋谷ジアン・ジアンに初出演(以後1999年12月まで100ステージ)。1985年6月、新宿安田生命ホールで60年安保25周年記念短歌絶叫コンサート「六月の雨」を開催。吉祥寺・蔓茶羅で月例コンサートを開始。
 1986年10月、山口市が主催した「中原中也没後五十年祭」に作家・大岡昇平氏と共に招かれ「中也絶叫コンサート」に出演。同年11月、世界50カ国の詩人と自作の朗読を競い合い「第6回ブルガリア国際作家会議コンクール詩人賞」を受賞。
 1987年4月月光の会を結成、翌88年4月に詩歌運動再興の理念を掲げ、弥生書房より短歌を中心とした総合文芸季刊誌誌『月光』(9号まで刊行、10号で完結予定)を創刊する。坪野哲久の貴重なインタビュー(1・2号)やその遺稿となる「方丈旦暮」50首(2号)を掲載、哲久再評価の大きな流れの先鞭をつける。また「詩書一体」を理念に果敢に創作を繰り広げた前衛書家木村三山や中井英夫、塚本邦雄、菱川善夫諸氏の特集は大きな反響を呼ぶ。
 1990年5月、NHKテレビ「現代ジャーナル」で「福島泰樹コンサートにみる現代/短歌絶叫」を制作。同年12月、浅草公会堂において「短歌絶叫20周年記念コンサート/遥かなる朋へ」を開催。
 1991年9月、100年の歴史の幕を下ろしてしまう浅草六区(日本近代芸能のメッカ)常生座で、ファイナル絶叫コンサートを開催、座長をつとめる。1995年、旭川市民会舘(3月)、目黒区民センターホール(5月)、早稲田大学15号館(11月)で「短歌絶叫25周年記念コンサート」を開催。25周年を記念して株式会社クエストから初の絶叫ビデオ『バリケード・一九六六年二月』を刊行。
 『さらば友よ』(思潮社)、『愛しき山河よ』(山と渓谷社)、『朔太郎、感傷』(河出書房新社)など歌集21冊の他、アンソロジー『絶叫、福島春樹絶集篇』(阿部出版)、評論集『黄金の獅子/辰吉丈一郎」(彩流社)、CD『短歌絶叫/中原中也』(東芝EMl)など著作は60点を数える。
 1995年、ラジオドラマ「紫陽花の家」で「第21回放送文化基金脚本貧」を受賞。1999年6月、河出書房新社から既刊20冊を一巻に収めた『福島春樹全歌集』を刊行。2000年2月、第20歌集『茫漠山日誌』(洋々社)で第4回若山牧水賞を受賞。毎月10日、東京吉祥寺・蔓茶羅(0422-47-6782)で月例絶叫コンサートを開催中。全国800ステージを数える。






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